独立性 2010 9 5
書名 絶対よくなる日本経済
著者 高橋 洋一 アスコム
中央銀行の独立性について、多くの人は、
いや政治家やメディアまでも勘違いしていると思います。
(以下、引用)
バーナンキFRB議長は、2010年5月、
「中央銀行の独立性、透明性と説明責任」と題して、
日本銀行本店で講演を行った。
新聞各紙の見出しは、「中央銀行の独立性強調」だったが、
この見出しだけ読むと、ミスリーディングだ。
実は、バーナンキ議長は、「独立性」の意味を限定的に用いている。
それは、講演草稿のはじめに、
「金融政策の目標は政治的に設定されるが、
目標達成へ金融政策をどう実行するかは、
政治的なコントロールから自由であるべきだとの幅広いコンセンサスが、
世界的にできあがってきた」と書かれていることからわかる。
さらに、その注では、
「『目標の独立性』と『手段の独立性』の違いは有用だ。
中央銀行が自由に目標を設定できるという『目標の独立性』を、
民主主義社会で正当化することは困難だ。
しかし、今日これから話すように、
中央銀行が干渉を受けずに適切な金融政策を実施できるような『手段の独立性』は、
経済安定のために極めて重要だ」と書かれている。
(中略)
ちなみに、現在の日銀法は、目標の独立性まで日銀に与えており、
バーナンキ氏の言うように民主主義社会では正当化できないものだ。
(以上、引用)
日本の歴史を振り返ってみましょう。
戦前の日本軍は、統帥権の独立を持ち出して、
政府や議会の言うことを聞かなくなってしまったのです。
軍部は、政府の意向や方針を無視して暴走を始め、
その暴走の結果は、歴史の教科書に書いてあるとおりです。
確かに、優秀な軍人から見れば、
政治家は、凡人に見えたかもしれません。
昔は、優秀な人材は、士官学校・陸軍大学を目指したと聞いたことがあります。
さて、優秀な人材が集まる日銀から見れば、
不祥事・失言・迷走を繰り返す政治家たちは、
凡人、いや烏合の衆にも見えるでしょう。
しかし、その「烏合の衆」でも、選挙で選ばれているという事実は重いのです。
それを忘れてはいけません。
「お上」意識が強い日本では、なかなか、なじめないことでしょうが、
本来、民主主義というものは、選挙で選ばれた政治家が、
すべてを決め、すべての責任を取るというシステムです。